永井 杜弥さん
東京都出身。調理師専門学校を卒業し、イタリアへ修行に出る。帰国後、阿佐ヶ谷にあるイタリアンバルに2年勤めた後、サブリースのイタリア酒場を開くも半年で閉店。その後、移住を決断し、大野市の地域おこし協力隊員となる。任期が満了し、洋食居酒屋イチナナバルを開業。
移住のきっかけは?
阿佐ヶ谷で経営していたイタリアンバルの店舗を閉店したことがきっかけです。その店舗の業務形態は、お昼は別のオーナーがお弁当屋を、夜は僕がイタリア酒場という形で店をシェアしていたのですが、一度全部片付けて、次の日に出してって、とても面倒な使い方をしていました。不満はお互い言わないようにしていましたが、だんだんお弁当屋のオーナーと折り合いが悪くなったので辞めることにしました。その時にちょうど子供ができたので、このまま東京で働き続けるかどうか考え始めました。東京で働いていたら次店出せるのは何十年先なるかもしれないのなら、ちょっと離れてみるのもありかもしれない。・・・それで移住先を探し始めました。ある意味、イタリアに行っていた経験がよかったです。移住のハードルがすごい低いというか、自分の中では引っ越すという感覚でしかありませんでした。
移住先を探し始めた
『地産地消ができる』『人が作ったものではない観光資源がある』『東京を中心に円心上ある地域』が移住先の条件でした。まず長野県や山梨県で探し始めましたが、海産物を取り扱えないとダメなのでこの2県は止めました。他には岐阜県、三重県、石川県と探していって、希望に合う場所として残ったのが福井県でした。そこで『福井県 店舗』をインターネットで検索することにしました。ネットサーフィンしているうちに地域おこし協力隊にたどり着いて、そこで初めて大野市と言う土地を見つけました。他にも地域おこし協力隊を募集している市町はありましたが、鯖江のメガネや東尋坊といった観光地が出来上がっている場所は避けたかったんです。
大野市を調べたところ、イタリアと同じ盆地であることがわかって、それで興味が90%くらい沸きました。六呂師高原があって、星空が日本一で、水が美味しくて天空の城があってすごいなって思い、大野市の隊員に応募して、移住することに決めました。
大野の印象は?
地域おこし協力隊の面接で訪れたのが初めてでしたが、ほとんど写真で見たイメージ通りです。来た時期が夏ということもあって、七間朝市は印象より、少し寂しさもありましたが、良い盆地だと思いました。越前大野城にも登りましたよ。
元々、イタリアの雰囲気に似た場所で『飲食店を開きたい』というビジョンがあり、特に六呂師高原がイメージに近かったです。妻も山の方が好きだと思います。僕がずっとイタリアの話ばっかりしていたので、それもあるんじゃないかな。。今は子育てがあるから難しいけど、いずれ妻とはお店を一緒にやりたいです。
今は、まちなかでお店を出していますが、六呂師エリアでお店を出したい気持ちは、現在も変わっていません。将来的にはお昼は六呂師で、夜はイチナナバルで店舗経営できればと考えています。うまくできたらいいですけどね。
地域おこし協力隊から開店まで
隊員として着任後は、まち講座と食べ歩きマップの普及活動が主な業務内容でした。転機としては、1年目の12月ごろ、大野のまちづくりを行うプレーヤーと移住者をマッチングさせるイベントに参加したことです。そこでいろんな人と出会えたことが大きかったです。様々なイベントを一緒に開いたりして、町のことに関わるようになっていきました。その中でひょんなことからお遊びで日替わりバーを開くことになったんですが、元々僕がお店を開きたかったこともあり、それだったらとそのままプランディングしてもらうことになりました。「やるならガチだ、中途半端なことはやらせん」と言ってくれて。元々米屋だった物件を探してきてくれて、誰にも貸さなかったところを行政とタッグを組んで交渉して口説き落としたらしいです。設計から改装までイベントを通じて知り合った大野の人たちが力を貸してくれました。
大変だったこと
今年の雪は大変でしたね。三日間くらい家から出られなかったです。屋根雪は勝手に落ちる設計なんですけど、玄関にたまっちゃって逆に困りました。お店の方は一回下ろしてもらいました。
飲食店をやる上で仕入れが大変でした。パスタなどは輸入になるんですが、大野市だと配達料がかかってしまうんです。それは僕が福井の業者に詳しくなくて、東京の卸にお願いしていたからなんです。結局、福井でも卸してくれる業者が見つかったからなんとかなりました。また、どうしても地産地消でまかなえないと、スーパーで買うんですが、高いですね。なので、地元の農産物を扱っている「農林楽舎」さんかシルバー人材センターさんから仕入れています。地元の農家さんから直接仕入れることもありますね。ただ、どうしても使う香味野菜はスーパーで買っています。
家族の反応
両親は反対だったと思います。僕は三男だし基本的には放任主義でしたが、子どもが出来ていたので心配だったと思います。ただ僕自身、思い込んだら一直線なところがあるので、両親としては引き留められなかったみたいです。両親は何度か大野には来ていて、今では大野が大好きになってくれました。
開業して
コロナ禍での開店なので、そこがベースになっています。ただ、コロナがあろうがなかろうがお店はやっていきたいと思っています。あんなに多くの人が関わって、お店ができたんです。コロナで人来ないし…と言うわけにはいかない。一緒に作ってきた仲間がいると言うことは心強かったです。それに緊急事態になったらなにかしら変えなきゃいけいと思ってもいました。そのおかげランチをしたり、カフェ営業をしたり。コロナだからこそいろいろ挑戦ができました。